カール・ライネッケ(Carl Heinrich Carsten Reinecke, 1824年6月23日 - 1910年3月10日)はクラシック音楽の作曲家、ピアノ演奏家、指揮者、教育者。
当時デンマーク領のアルトナ(現在はハンブルク市の一部でドイツ領)に生まれ、ライプツィヒで没した。音楽理論や音楽教育書の著作を出していた有名な音楽教育者の父親ルドルフ(1795年 - 1883年)に学ぶ。
7歳までに作曲を始め、12歳でピアニストとして初めて公開演奏を行なった。
1843年(19歳) 北欧に演奏旅行を行い、引き続きライプツィヒでメンデルスゾーンやシューマンに師事。
1846年(22歳) デンマークにて宮廷ピアニスト。この頃、ピアノの巨匠フランツ・リストが娘コジマの為のピアノ教師としてライネッケを選ぶ。
1851年(27歳) 作曲家フェルディナント・ヒラー(1811年 - 1885年)に乞われてケルンの音楽学校の教師となる。
1860年(36歳) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長、音楽院の教授に就任。
ブラームスの「ドイツ・レクィエム」全曲版のライプツィヒにおける世界初演を指揮したのがライネッケである。ブラームスと親交を結ぶまでは、ライネッケの作品ではメンデルスゾーンやシューマン、ショパンの影響が顕著だったが、その後はブラームス作品のもつ綿密さや堅固な構成力が加わるようになった。
ライプツィヒ音楽院の門下生に、ブルッフ、グリーグ、スヴェンセン、シンディング、ヤナーチェク、アルベニス、ワインガルトナーらがいる。
作品
公職から引退後にも作曲活動に専念したため、創作数は出版作品だけで300曲を超え、未出版の作品を数えると千曲以上ともいわれる。「マンフレッド王König Manfred」などのオペラも作曲した。19世紀の価値観から一歩も外に出ようとせず、名人芸もほとんど用いなかった為、死後は多くの作品が演奏家のレパートリーから抹消されることとなった。
現在では、最晩年に書かれたホルン三重奏曲やフルート協奏曲、大量のピアノ作品やピアノ協奏曲などが再評価されるようになり、楽譜の確保や演奏の容易さも伴ってか意外なほど録音活動も好調である。しかし、それでも彼の巨大な創作の全貌を捉えることは、まったく出来ていない。
教育目的でかかれた作品には「ミニチュアソナタ」や「左手の為のソナタ」など創意工夫に富んだ物が多く、今日の教育に於いても使用可能である。
ちなみにピアノ独奏の為の「バッハの主題による変奏曲」を世界で初めて作曲したのがライネッケである。
交響曲
交響曲第1番 イ長調 Op.79 (1858年)
交響曲第2番 ハ短調 Op.134 (1874年)
交響曲第3番 ト短調 Op.227 (1895年)
協奏曲
ハープ協奏曲 ホ短調 Op.182 (1884年)
ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op.72 (1860年)
ピアノ協奏曲第2番 ホ短調 Op.120 (1872年)
ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.144 (1877年)
ピアノ協奏曲第4番 ロ短調 Op.254 (1901年)
チェロ協奏曲 ニ短調 Op.82 (1864年)
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 Op.141 (1876年)
フルート協奏曲 ニ長調 Op.283 (1908年)
室内楽曲
フルートソナタ ホ長調 「ウンディーネ」 Op.167(1881年)
弦楽三重奏曲 ハ短調 Op.249
マンモ チンク クンツ きうい ゆうばり イタリティ スペーサー パーラー デモリ スカス タブレット リターン シーシー レーター ロマンス ゲストハ トレー ハンガリー シャツト スペシャル ゼロ クランド オービ ミオーダー ヒュウ ドロー ディガン ほわい レッド ニュー キュラー つきだて 大化の改新 きくもん ブマリン トルコ サーキッ ローカル フォア ケヤキ フェイス ビッグ トリロジー キット 森の小人 レジン パンタロン リクル ストーリ デージ
ピアノ曲
アンダンテと変奏曲(2台) 変ホ長調 Op.6 (1844年)
3つのソナチネ Op.47 (1854年)
ゆりかごから墓場まで Op.202 (1888年)
左手のためのピアノソナタ ハ短調 Op.179 (1884年)
フルートソナタ『ウンディーネ』Op.167は、カルル・ライネッケが1882年にフリードリヒ・フーケの戯曲『ウンディーネ』に着想を得て作曲したフルートソナタである。