古代都市アレッポ(こだいとし―)は、シリアの北部にある都市アレッポに残る歴史的構造物が登録されたユネスコの世界遺産(文化遺産)の物件。
アレッポは、シリアの首都ダマスカスの北約300キロメートル、トルコ国境に近くに位置する。象徴的な建物であるアレッポ城は、紀元前10世紀に最初に建築され、12世紀から14世紀にはモンゴル帝国の侵入や十字軍の攻撃にも耐えた。世界最大の市場の1つともいわれるスークもアレッポの象徴である。スークの北にあるグレート・モスクは、建築様式が他のモスクの手本になったとも言われる。アレッポは現代でもシリア第2の大都市であり、考古学者が発掘を行う機会も限られている。
アレッポ一帯は紀元前1800年ごろから居住が始まった。ユーフラテス川と地中海方面を繋ぐ古くからの交通の要衝の地であり、古くから商業都市として栄えた。紀元前20世紀にはヤムハド王国の首都として栄え、その繁栄はヤムハドの支配者であったアモリ人の王朝が紀元前1600年ごろ倒れるまで続いた。紀元前800年ごろまでヒッタイトの支配下におかれ、その後アッシリア、アケメネス朝に支配された後、紀元前333年、セレウコス朝によって古代ギリシア人の支配するところとなった。セレウコス1世はこの都市をベロエアと改称した。セレウコス朝の支配は紀元前64年に共和政ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスに征服されるまで続いた。
395年のローマ帝国の分裂で東ローマ帝国の領土となったが、637年にアラブ人に征服された。944年にモースルのハムダーン朝に征服されその後モースルから独立するが、再興した東ローマ帝国がヨハネス1世ツィミスケスの遠征によって短期間、974年から987年にかけて支配権を取り戻した。ふたたびハムダーン朝の支配下となったが、1004年王家断絶によりエジプトのファーティマ朝に併合された。1094年、セルジューク朝が街を征服し、そこから分かれたシリア・セルジューク朝がアレッポを支配した。
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12世紀、十字軍の侵攻が始まると、アレッポはイスラム側の前線基地となる。もともと神殿だったものをアレッポ城へと要塞化する。アレッポは1098年と1124年に十字軍に包囲されたが、陥落はしなかった。テュルク系の諸アタベク政権であるアルトゥク朝、ザンギー朝の支配を経て1183年、街はエジプトにアイユーブ朝を開いたクルド人将軍サラディンの手により開城され、アイユーブ朝の支配下に入った。モンゴル帝国のフレグが1260年街を征服し破壊したが、フレグの創設したイルハン朝の後継争いの中、1317年に地元の領主が独立し、エジプトのマムルーク朝の影響下に入った。その後ティムール朝の攻撃を受ける。
1517年、テュルク系のオスマン帝国のセリム1世によりアレッポを含むシリア地方は征服されマムルーク朝も滅亡し、以後オスマン帝国の長い統治が始まった。1517年時点での人口は約5万人だった。16世紀、大航海時代に入り、陸路による物資輸送が下火になるにつれて、アレッポの街も衰退していった。
主な構造物 [編集]
アレッポ城 [編集]
紀元前10世紀に当地に築造された神殿を原型とする古城。たび重なる戦争の歴史のなかで、しだいに城砦化していった。十字軍の侵略に際して改築された12世紀の姿のままで今に残っている。[1]
スーク(市場) [編集]
世界最大規模ともいわれる市場。往時の繁栄の面影を留める。[2]
その他 [編集]
キリスト教地区